iPodが出たときはあまり迷わなかった。値段が高すぎたし、1万曲も持ち歩くつもりはなかったから。
iPod Miniが出たときは正直悩んだ。微妙な値段設定だったし、1000曲というは妙に現実味があった。カラーバリエーションがあるのも良かった。
しばらく様子を見ようと思った。

そして今度のiPod shuffle。値段も大きさも手ごろすぎる。
これで、iPod Mini並みのカラーバリエーションがあったら、迷わず「買い」だったんだが。

また、しばらく様子を見ようと思った(笑
09月30日付 日刊スポーツの報道「三越が大阪、横浜など10店舗閉鎖へ」へのコメント:

特に通いつめた記憶もないのだが、入り口にライオンが鎮座する三越は、ずっと横浜の西口にあるものだった。

1階にはマクドナルドがあって、イートインスペースはものすごく小さかったけど穴場的存在で、学校帰りに友達と寄ったものだ。
地下のジョアンというパン屋、ここのミニクロワッサンは後を引く美味しさで人気があって、なかなか買えなかったものだ。
1階には、そごうにもタカシマヤにもないティファニーがあり、ウィンドウを覗いてオードリーな気分を試してみたりしたものだ。

学生時分にはタカシマヤでバイトをしていたが、当時は「ライバルは三越」という意識が社員全体に浸透しており、常に三越を意識しての展開があった。

だが、西口での商戦では三越は旗色が悪く、あまり客入りがよろしくないことも知っていた。というか、客として店内に入ってみれば一目瞭然だった。
地下街で直通になっているものの、西口では一番駅から遠いデパートだったのだから、さもありなん。よほどの「ここでなければ」という「付加価値」がないと、人は流れていかない。

BOOTSを入れてみたり、UNIQLOを入れてみたり、おおよそ「三越デパート」らしからぬ様相を呈しはじめたこの数年の様子は、素人目にも「ヤバいのでは」という雰囲気を醸していた。

それでも、西口には三越がずっとあるものだと、そう思っていた。
なぜなら、物心ついたときから今までずっと、西口にあったからだ。

なくなる、という話を聞くと、いままでロクに買い物をしたことがないくせに、なんだか「閉店なんて卑怯」という気持ちになってしまう。
人間とはいい加減なものだ…。

閉店前にもう一度、ジョアンのパンを買おうかな。
09月14日付 日刊スポーツの報道「Utadaアルバムがオリコン初登場1位」へのコメント:

この「EXODUS」というアルバムは「全米デビュー」のものだと思ったが、それが日本で1位になることにどれほどの意味があるのだろう?

今、全米チャートでは何位なんだろな?
そのために出したアルバムなんだから、結果のキックバックがぜひともほしいところ。
大学生の頃は法学部に籍を置いていた。
3年次から履修する、いわゆる「ゼミ」というものは、法学部だけあって、どのゼミであってもそれぞれの法律の細かいところを掘り下げるものだったが、その中に一つだけ「パソコン使用」という変り種があり、まだ大学の「パソコンルーム」に5インチFDDのPC-98が鎮座しているご時世に、単に「パソコン」というものに対する興味から、「パソコン」というものに対する予備知識はほとんどない状態にもかかわらず、このゼミを選択した。

何のゼミかというと、平たく言えば「電子裁判官」を作る、という主題のもので、論理式を組むのに適した「Prolog」というプログラム言語を使用して、「被告人△は刑法○○条により××の刑とする」という回答が自動的に出るようにプログラムを構築する…と教授は説明した。
法学部の変り種なこのゼミで、俺はMS-DOSの基本的な操作から、エディタを使ってのPrologのプログラム文を書くまでの方法をイチからマスターし、ある程度の論理式なら組めるようになったのだが、実際に「電子裁判官」となると、話は別物だった。

分かりやすく「刑法199条 殺人罪」を例に取ろう。
199条は平たく言うと「人を殺した者は死刑」という規定だ。だが、実際に殺人を犯した人が全員死刑になっているかというと、そうではないのは自明の理だ。
まず「人を殺した者」、この人が少年なのか、未成年なのか、成年なのか。それによって量刑が変わる。
更に、
 殺意はあったのか、なかったのか。
 初犯なのか、再犯なのか。
 複数人殺したのか、一人殺したのか。
 衝動的だったのか、計画的だったのか。
等々の条件により、量刑が増えたり減ったりする。

それに更に加味されるのが「情状酌量」というやつ。これは山東省の「電脳量刑」でも話題になっているが、数値や規定による明確な基準がないので、プログラム文でバッサリと判断するのが難しい。

仮に、ある人が実に周到に計画した上で自分の両親を殺したとしても、その犯人が「両親から日常的に暴力を受けていた」という事情があればどうなるか?
どういう論理式を組めば、この「情状酌量」を判断することができるだろうか? 

実際には、ゼミでは刑法は取り扱わず、情状酌量の余地があまりない民法の契約法をメインに、せっせとプログラム文を書いていた。
無論、1年程度のゼミではプログラム文が完成するはずもなく、中途半端なプログラム文を提出して、ゼミは終わった。

残ったのは、ブラインドタッチの技能と、基礎的なMS-DOSの知識だけ。Prologは一般的なプログラム言語ではないので、ゼミを終えた後は何の役にも立たなかった。
就職活動時に、法学部在籍なのにパソコンを使ったゼミを履修した、というのが「話のネタ」になった程度か。
07月23日付 日刊スポーツの報道「無言で刺す女子高生、賑わう町に衝撃走る」へのコメント:

「むしゃくしゃしていた、誰でも良かった」って動機をニュースでよく見かけるが、「誰でもいい」で人を刺して「むしゃくしゃした」という気分が晴れるのだろうか?

腹が立って何かに八つ当たりする、というのなら分かる。
会社のすみにあるダンボールを蹴り飛ばしたり、コマーシャルじゃないがバッティングセンターで吼えたり、そんな風に発散することは俺だってある。

だが、発散する、という行為が「人を刺す」という行動になるのが理解できない。
高校生という年齢の少女に、「人を刺す」という行為がどういう結果につながるかが理解できていなかった、とは思いがたい。

佐世保の小学生の女の子の事件は明確な動機があったので、まだいくらか理解できるが、今回のこの事件は全く分からない。

一つだけ分かったのは、自分は何も悪いことはしていなくても、ただぼけーっと突っ立っているだけでも
「むしゃくしゃした。誰でも良かった」
という理由だけで背後から包丁を突き立てられる可能性がある、ということだけだ。
長嶋さん、現時点では
「右手に麻痺があって、医者が手を添えると曲げたりできる」
「ゆっくりなら話せるので『失語症』のような重い言語障害はない」
だ、そうで。
まるで失語症でないことがとてもいいことのように報じられているが、これも楽観視しすぎだよな。
「失語症」にまでは至ってないだけで「言語障害」が出てるのは間違いないわけだ。
これは右手の麻痺なんかより時間もかかるし、治すのは大変なんだ。
頭の中でインデックスがバラバラになった状態だから、外から手助けすることはできるが、最終的にインデックスを正しい位置に直すのは、本人の努力なのだ。
目に見えて、力がついたり正確に動いたりするようになるのが分かる手足の麻痺とは全然違う。

俺のオヤジはひらがなを忘れてしまった。
ノートとペンを用意し、ひらがな五十音を大きく書いてやり、
「『あ』という音を表すには、この『あ』という文字を書く」
というレベルから、一文字ずつ練習していった。
文字の形自体は忘れておらず、脳梗塞を起こす前と何ら変わらず達筆に「あ」と書いてみせるのに、「あ」という音に対して「あ」というひらがなの文字が結びつかなくなってしまい、
「なんでこんな難しいものを覚えなくてはいけないんだ!」
と怒り出したり、
「こんなモン、覚えなくても生きていける!」
と投げやりになって怒ってしまったのも、もう何十回あったか知れない。

失語症ではない、それほど重くない言語障害、といわれた俺のオヤジでも、こういうレベルからのスタートなのだ。

まだまだ、これからですよ長嶋さん。
長嶋さんというオンリーワンな人に対して抱かれる幻想めいたものは、きっと俺の世代よりも上の人のほうが、なにやらすごいことになってるのだろう。

奇跡を起こす、とか。
超人的な回復、とか。

カリスマに対して抱く妄想と片付けるには、あまりに楽観的な台詞、報道にはメマイを覚える。腹立たしくさえある。

俺のオヤジは去年、左脳に脳梗塞を起こして入院した。
(一部情報は「秘密日記」に書いたので、知ってる読者もいるかもしれないが)
TVや新聞の報道で判断する限り、長嶋さんとオヤジの脳梗塞は同程度のようだ。
その経験を踏まえて言わせて貰うが、いくら彼があの「長嶋さん」であろうと、年齢の割に健康であろうと、脳梗塞で壊死した脳の機能をリハビリで取り戻して行くのには、それなりの時間が必要だ。それは間違いない。
だから「アテネで指揮を」なんて、プレッシャーを長嶋さん本人や家族にかけるようなことを軽軽しく言う奴らには、正直腹が立つ。

右半身の麻痺は、今も回復しつつあるようだし、日常的に使う場所だから、時間が経てば元通りに回復することは間違いない。
厄介なのは、左脳にある言語野が損傷することで発生する「言語障害」。こちらのほうがリハビリにも時間が掛かる。
俺のオヤジは倒れてからもう半年以上過ぎているが、未だに一部の単語は咄嗟に出てこないし、呂律も少しおかしいところが残っている。
(まあ、使用頻度の低い単語の場合に限られているが)
長嶋さんのような人が、単語が出てこずに考え込んだり、呂律がおかしかったり…というのでは、NGだろう。

あと、一部の記憶が飛んだり、混乱したりするのは、やはり脳に損傷が出た以上避けられない。
俺のオヤジは会社勤めしている間、ゴルフでブイブイ鳴らしていた方だったが、退院直後は、あれほど好きだったゴルフ中継を見せてやっても
「ルールが分からない。何をやってるのか分からないから、見てもつまらない」
と言った。
(今はゴルフのルールを思い出しているし、中継を楽しんでいるが…)
一概に、俺のオヤジのケースを当てはめるわけには行かないが、長嶋さんが「野球のルールが分からない」なんて言い出す可能性はなきにしもあらずだ。むしろありうることではないだろうか。

アテネ五輪まで半年もない。
だから言う。
長嶋さんに五輪代表の監督、なんてもう言うな。
マスコミや衆人環視の元で「観戦」に行けるだけでも、回復が早いほうだと思え。

長嶋さんは、TVやマスコミの前に出ても問題ないくらい回復しなくてはいけない、という宿命を負っている。気の毒なことだが。
そして、回復の道のりは長く、とてもつらい。
間違っても、患者や家族を急かすな。早く良くなって、などというプレッシャーを与えるな。
リハビリが思うように進まない辛さは、本人が一番つらい。一番こたえる。
だが、家族は、それを外から見守り、支えることしか出来ない。
周囲の期待が高いほど、本人はつらい。家族もつらい。

脳梗塞患者の家族として言わせて貰う。
長嶋さんを、そっとしておいてあげてくれ、と。
彼のペースで、回復させてあげてくれ、と。